5月初めの晴れた日、お昼ちょっと前のことである。O氏は浴槽の湯を汲もうと脱衣所の戸を開けた。そう、O氏はマメな人間である。その日も廊下を拭き掃除しようと、手が空いた時を利用して行動に移そうと思っていた。そしてO氏は節約型の人間でもある。だから拭き掃除には風呂の余湯を使っているのである。
脱衣所を開けて、O氏は目を疑った。目の前が暗くなった。脱衣所は畳1枚ほどの広さ、正面はガラス戸があり、昼間なので明るいはずなのであるが、暗い、黒い。そんなはずはない、何かの間違いだ、めまいでも起きたのかとおもった。
目を思い切り開き、じっと狭い空間を見つめた。腰を少しかがめていたどうか、それはわからない。石川啄木はじっと手を見たが、O氏はじっと壁を見つめた。そして、大声をあげた。ワー……。
O氏は騒がしい人間である。そそっかしくもあるし、大げさである。バタンと戸を閉め、「ふ、ふ、ふろに……」と叫びながらダイニングへ駆け込んだ。駆け込むといっても豪邸ではないので、ほんの2歩3歩走っただけのことだが、家族に異常事態発生を知らせた。ところが、家族ときたら、O氏が騒がしく、そそっかしく、大げさな人間であることを見抜いているのでピクンとも動かない。O氏は我が家ではオオカミ少年ならぬオオカミ中年なのである。
「どうしたのよ、騒がしいな」
「羽アリが、羽アリが飛んでいる」
「そう、どうせ1匹か2匹でしょ」
「違う、いっぱいいる」
何匹いるのかわからないほど脱衣所は黒かった。O氏はいままで羽アリと遭遇したことはないのだが、知識として羽アリを知っていたのだろう、とっさに羽アリを識別し、家族に伝えたのである。見て来いとO氏は言った。
ワーと息子が叫んだ。さすが親子だ、異常事態になると似ているのである。しかし、O氏より冷静であり、「どうする?」と聞いた。O氏は戸惑った。さて、どうする、どうする。
「殺虫剤!」
「えっ、撒くの?」
「それしかないだろう。撒いてくれ」
「えー、自分でやったら」
「ちょっと大工のところに行ってくるから、やっておいて」
「逃げるのかよ」
O氏は逃げたわけではない。この緊急事態、なんとかしなければならないと思ったし、その発端は風呂場にあると推測したのである。O氏は近くの工務店へ向かった。何度か家の手直しをしてもらっている工務店である。
「羽アリがでましてね、ちょっと見てもらいたいのだが」
「おお、そうかね。あとで見にいくから」
棟梁はそう言う。
家に戻ると、息子はアースジェットで羽アリを駆除していた。
羽アリの屍骸。かなりいる。まだ、飛んでいるものも2匹ほどいた。それをO氏は叩いた。
「ごくろうさん」とO氏は言った。羽アリがいなくなったことで気が落ち着いた。
だが、羽アリを殺虫剤で駆除したことがよかったのかどうか、正しいことだったのかどうか。後になって悩むO氏であるが、その時は何も考えてはいない。しかし、結果としては生き残った羽アリが卵を産む可能性を減らしたし、近所に迷惑をかけずにすんだようだ。
棟梁がやってきて、風呂場を見てくれた。
「ここか、この腐ったところかな」
風呂場に入るドアの下が腐っていた。1枚板を剥がすと、羽アリの屍骸でいっぱいだった。(つづく)*イラストの羽アリはヤマトシロアリ(世界大百科事典:平凡社から)
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[おかだ・けんじ] 住宅ジャーナリスト・NPO法人埼玉住まいの情報ネットワーク代表。
辛口『野次馬住宅時評』を発行。著書に『住宅のお値段・原価の秘密』『住宅業者の良し悪しがピタリわかる本』『住まいたちの半世紀』など。近著『昭和の住まい学』。
野次馬住宅net http://www.tcat.ne.jp/~yajiuma