太宰治の小説に「人間失格」があります。この中で、対義語(アントニム)の当てっこゲーム(遊戯)をやる場面がでてきます。白の反対は黒とか当てっこするんです。同義語(シノニム)というには同じような意味の言葉で、「人間失格」ではこんな遊び方をしたいます。
「花のアント(対義語の略)は?」
と自分が問うと、堀木は口を曲げて考え、
「え4っと、花月という料理屋があったから、月だ」
「いや、それはアントになっていない。むしろ、同義語だ。星と菫(すみれ)だって、シノニムじゃないか、アントでない」
(「人間失格」新潮文庫から)
こうした遊びも真剣に考えると疲れますが、面白がってやると、楽しいし、それに思わぬ発見もあります。「敷居も暖簾はみな同じ」と前回書きましたが、敷居=暖簾=境界線と太宰治の対義語・同義語遊びで言うと、同義語となります。
それじゃ、もっと同義語を探してみようじゃないか。プライバシー・リフォームの観点で、自分と家族、他人(来客や通りがかりの人)の目で、同義語となる境界線を出してみよう。
衝立や障子・襖も境界線をつくるものだ。立てたり、閉めれば、「入るな」「見るな」とか合図を送り、開ければ境界線を消すこともできる便利な道具です。
縁側も境界線である。こちらは外と内(室内)の境界線。内からも外からもつなぎ役となる。だけど縁側はそれだけではない、近所のおばあさんと「よいこらしょ」と座って、お茶を飲みながら世間話。そこはコミュニケーションの場となり、自分と他人が一体となれる場、プライバシーから開放された状態になれる場でもあるのです。
塀・垣根も境界線。これも外と内をしきる道具です。
「板の間と畳の座敷の違いは、素材によるしきりによっている。」というのは柏木博さん(「しきり」の文化論 講談社現代新書から)。素材でも境界線はできるんですね。素材の違いで空間を演出するリフォームというのはもっと追求しなければいけない分野です。
「間」も同義語? と考えてみました。間というのは、「一間(ひとま)」「間取り」とかいう場合の間です。日本の住宅は柱を建てて屋根を乗せてつくりますが、柱と柱の間が「間」なわけです。「窓」というのも間(あいだ)に入った戸ということで間戸からきています。
「間を持たす」「間が悪い」「間をとって」「間が延びる」とか言いますが、間というには空間的にも心理的にも大事な要素です。でも、音楽で一瞬の静寂も間、しかし、ここが微妙で長くても短すぎてもダメと、間というのは複雑です。
『日本の住まいの中の「間」というものが、無限の広がりをもつようなむだがあり、それが、日本の住まいのよさになっている……』と建築家の清家清氏(2005年4月没、日本人と「間」講談社ゼミナール選書から)。床の間や茶の間といった一見無駄のようなスペースこそが「間」でもあるというのです。
「間」=「無駄」と考えるとすっきりします。縁側もそうすると間です。吹き抜けなど大空間をつくるのも間です。玄関を広々ととる無駄も間となります。「廊下」も空間からすると無駄であり、間をとるスペースです。
清家清氏も言っていたように、この無駄がいいんです。だから無駄のない『最新の合理化された住まいを見ていると、どうも息苦しい。それはほんとうに「間」が抜けているからなのです。』(同書から)ということにもなります。縁側もない廊下もないといった合理的空間設計は境界線のない住まいなのです。
「無駄」は「境界線」ともイコールになります。そう。無駄のある間は、空間的心理的な境界線なのです。間取りというのは、そんな自分と家族や他人とのプライバシー(人間関係)の間を考えることでもあるのです。部屋を割り振るのが間取りではないのです。

[おかだ・けんじ] 住宅ジャーナリスト・NPO法人埼玉住まいの情報ネットワーク代表。
辛口『野次馬住宅時評』を発行。著書に『住宅のお値段・原価の秘密』『住宅業者の良し悪しがピタリわかる本』『住まいたちの半世紀』など。近著『昭和の住まい学』。
野次馬住宅net http://www.tcat.ne.jp/~yajiuma